2019年2月1日金曜日

なぜイスラム教では「宗教に強制なし」なのに「棄教=死刑」なのか?

2019年1月初頭、ラハフという名の18歳のサウジ人女性がビザ不所持でタイのイミグレで拘束され、イスラム教を棄てたので国に帰ると家族に殺されると主張、それが理由で難民認定されカナダに移住するという事件が起こりました。

イスラム教の規範においては一般に、「棄教=死刑」とされています。

典拠としては一例として以下のようなハディースが挙げられます。


一方でイスラム教の聖典『コーラン』には「宗教に強制なし」とか「あなた方にはあなた方の宗教があり私には私の宗教がある」という章句があることがよく知られています。



宗教に強制がないならばイスラム教をやめるのも自由なはずではないか、という疑問がわくのは当然です。

イスラム世界には、こうした問題についてイスラム法学者に質問をすると法学者がファトワーという回答を出してくれるという伝統があります。

ちょうどこの問題について、クウェートの著名法学者であるウスマーン・ハミース師が先日(1月9日)ファトワーを出しました。


 同師は言います。

「棄教者に対する死刑は、その人をイスラム教徒にもどすことを意図するものではない。」

ではなぜ死刑に処されるのかというと、

「棄教者は犯罪を犯したからだ。」

とのこと。

姦通の罪を犯した者が既婚者ならば石打刑、 未婚者ならば鞭打ち刑に処されるのと同様に、棄教者は棄教という罪を犯したので死刑に処される、ただそれだけのことだ、と同師は説明します。

棄教はイスラム教に対する侮辱と同等の罪と規定され、預言者ムハンマドや唯一神アッラーを侮辱した場合と同様の罰を受けると同師は述べています。

預言者や神に対する侮辱に対する罰は死刑であり、よって棄教者も死刑に処されるのであって、それは棄教者にイスラム教という宗教を強制するのとは全く異なる、と説明されています。

同師は次のようにも言っています。

「我々は、イスラムに改宗しろ、さもなければ斬首する、などとは言わない。」

つまり、「宗教に強制なし」と「棄教=死刑」は全く矛盾してなどいないのです。

なお「棄教=死刑」というのはイスラム法の規定であり、現在のイスラム諸国ではイスラム法ではなく国家の定めた制定法が施行されているので、必ずしも全ての国において「棄教=死刑 」ではありません。

一方、「棄教=死刑」というイスラム法の規定は現在もなおイスラム教徒に広く支持されているということも指摘しておきます。

2010年にピュー・リサーチセンターが実施した調査では、エジプト人の86%、ヨルダン人の82%、アフガニスタン人の79%が棄教者に対する死刑を支持していルことが示されています。


歌手のゼイン・マリクの例に見られるよう、イスラム教をやめたと公に宣言した人に対し「死ね」という脅迫が殺到する理由は2つあり、ひとつ目はイスラム法でそう定められているからで、ふたつ目はその規定が今もなお一般のイスラム教徒に強く支持されているからです。

刑法で「棄教=死刑」と定められてはないものの国民の90%がイスラム教徒であるエジプトにおいても、基本的に棄教というのはあってはならない…というか、ありえない行為です。

ところがここ数年、エジプトの特に若者の間でちょっとした「無神論ブーム」があり、ある若者がテレビのトークショーで自分は無神論者だとぶっちゃけ、大変な騒ぎになりました。

問題のトークショーの映像と解説はこちら「無神論者vsイスラム教徒:エジプトのトークショーで大波乱」です。

司会者とイスラム教指導者が最初思わず茫然自失し、その後怒涛の反撃で怒りをあらわにする様子がよくわかります。

なおイスラム法においては、棄教はそれ自体が犯罪とされているように、不信仰もそれ自体が犯罪とされています。

不信仰者は不信仰者であるだけで、自分では全く悪いことをしているつもりはなくとも十分立派な犯罪者なのです。

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