2019年3月11日月曜日

イスラム教徒 vs. LGBT:イギリスの小学校でマイノリティ同士の戦い勃発

イギリスのバーミンガムにある小学校で今年2月、イスラム教徒の父母を中心とする300人ほどがLGBTについての授業に抗議するデモを行いました。(写真はMailOnlineより)


この小学校では「仲間はずれなんていない(No Outsiders)」というプログラムに従い、年に5回、LGBTの平等を促進しLGBTの価値観を支持する授業が行われていました。

そこではお母さんが二人いる家庭の話など、同性愛や同性婚の話を読ませ、その価値観を肯定するよう指導されていたとのこと。

これに対してイスラム教徒の父母は、「価値観の押し付けだ!」「子供の無垢さを利用するな!」「我々の子供に同性愛やLGBT的な生き方を勧めるな!」「我々の文化に対する差別だ!」等々と抗議、授業停止を求める署名活動が行われ、3月には授業に参加させないために600人ほどの子供を学校から連れ戻す事態に発展しました。

これを受けて学校は「仲間はずれなんていない」授業の停止を決定

一件落着かと思われたところで、今度はLGBTを支援する議員が、イスラム教徒父母の行動はLGBTに対するヘイト・クライムであり学校から生徒を連れ戻し教育を妨害したことに対して罰金が課せられるべきだと抗議しました。

LGBTの支援者らは、こうしたイスラム教徒たちによるLGBTに対する侮辱の声は日に日に大きくなっており、社会が分断されてきていると懸念を表明しています。

イスラム教徒とLGBTは共にいわゆる社会的なマイノリティであり、リベラル勢力が保護すべき対象だと主張してきた存在です。

今回発生したのは、マイノリティ同士の利益が相克するという事案です。

イスラム教においては、同性愛行為は神の秩序に対する反逆行為であるとして禁じられています。

イスラム法において合法とされる性交渉は、婚姻関係にある異性同士か、男の主人と女奴隷との間のもののみと規定されており、それ以外は全て違法なのです。

またイスラム教は、神は人間を男と女として創造し、それぞれにふさわしい規範を与えたと考えるので、男の身体を持って生まれたのに女だという自覚を持ち自分は本当は女だと主張する、といった「性同一性障害」というものの存在を本来的に想定していません。

心の中でそういった認識を持つだけならば自由ですが、それを表明することは全く認められないのです。

ですから、「LGBTの価値や生き方を認めましょう!」「LGBTも平等です! 」と学校で教え込まれるのは、イスラム教徒としては大変な迷惑なのです。

イスラム教徒は自分たちこそ「保護されるべきマイノリティ」だという認識があるので、「LGBTの価値を押し付けられるのはそれと矛盾するイスラム教の価値を軽視しているという点で差別的であり受け入れられない」、と主張しているのです。

一方、LGBTの側もイスラム教徒に「お前たちの価値は受け入れられない」と言われているわけですから、これは差別だと感じられます。

特に問題となった学校はイギリスの教育監査局オフステッドから高く評価されている普通教育を施す学校であり、決して宗教学校ではありません。

多様性のある社会を実現させようという流れの中で、なぜ自分たちがイスラム教徒に遠慮しなければならないのか、そんなことがあっていいわけがない、という主張も理解できます。

私はここで、イスラム教徒とLGBTのどちらに味方すべきか、という話がしたいわけでは全くありません。

私の目的は、マイノリティが個々の権利、利益を主張すればするほど、社会は分断されるという現象の具体例を示すことです。

今回のような事件が発生すれば、イスラム教徒も「LGBT教育反対!」という人と、「LGBTについて学ぶくらいはいいんじゃないの?」と考える人と、「俺/私も実はLGBT」と主張し始める人と…とさらに分裂するでしょう。

(実際、バーミンガムにはイスラム教徒LGBTの組織があります。)

LGBTの人々も「イスラム教徒もLGBT平等を認めるべき!」という人と、「イスラム教徒はLGBTを認めなくてもいいけどLGBT授業はすべき」という人と、「イスラム教徒にはLGBT授業は不要」という人と…とさらに分裂するでしょう。

多様性のある社会と聞いて想定するのは、様々な人種、宗教、文化、性的指向を持つ人々が、互いに認め合い、時にそこから新たな融合文化が生まれ出るような、ニューヨーク的な、理想的な社会かもしれません。

しかしバーミンガムの事例が示すのは、様々な特性を持つ人々同士は、互いを認め合うことがないどころか、互いの存在を否定し合い、権利を主張しあって争い合い、文化や社会は融合するどころかますます亀裂が増え分断が進むことがある、という事実です。

日本は欧米から何周も遅れて外国人労働者を受け入れることを決定し、今更のように「多様性のある社会を実現させよう!」と政界や経済界が声を合わせて主張し始めました。

私たちは、実態のない妄想としての理想的多様性社会を夢見るより、実態としての多様性社会でどのような問題が生じているか、それはどのようにこじれ、どのような解決をみるのかについて、注視しそこから学ぶべき時期にきているように思います。

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