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2019年3月11日月曜日

イスラム教徒 vs. LGBT:イギリスの小学校でマイノリティ同士の戦い勃発

イギリスのバーミンガムにある小学校で今年2月、イスラム教徒の父母を中心とする300人ほどがLGBTについての授業に抗議するデモを行いました。(写真はMailOnlineより)


この小学校では「仲間はずれなんていない(No Outsiders)」というプログラムに従い、年に5回、LGBTの平等を促進しLGBTの価値観を支持する授業が行われていました。

そこではお母さんが二人いる家庭の話など、同性愛や同性婚の話を読ませ、その価値観を肯定するよう指導されていたとのこと。

これに対してイスラム教徒の父母は、「価値観の押し付けだ!」「子供の無垢さを利用するな!」「我々の子供に同性愛やLGBT的な生き方を勧めるな!」「我々の文化に対する差別だ!」等々と抗議、授業停止を求める署名活動が行われ、3月には授業に参加させないために600人ほどの子供を学校から連れ戻す事態に発展しました。

これを受けて学校は「仲間はずれなんていない」授業の停止を決定。

一件落着かと思われたところで、今度はLGBTを支援する議員が、イスラム教徒父母の行動はLGBTに対するヘイト・クライムであり学校から生徒を連れ戻し教育を妨害したことに対して罰金が課せられるべきだと抗議しました。

LGBTの支援者らは、こうしたイスラム教徒たちによるLGBTに対する侮辱の声は日に日に大きくなっており、社会が分断されてきていると懸念を表明しています。

イスラム教徒とLGBTは共にいわゆる社会的なマイノリティであり、リベラル勢力が保護すべき対象だと主張してきた存在です。

今回発生したのは、マイノリティ同士の利益が相克するという事案です。

イスラム教においては、同性愛行為は神の秩序に対する反逆行為であるとして禁じられています。

イスラム法において合法とされる性交渉は、婚姻関係にある異性同士か、男の主人と女奴隷との間のもののみと規定されており、それ以外は全て違法なのです。

またイスラム教は、神は人間を男と女として創造し、それぞれにふさわしい規範を与えたと考えるので、男の身体を持って生まれたのに女だという自覚を持ち自分は本当は女だと主張する、といった「性同一性障害」というものの存在を本来的に想定していません。

心の中でそういった認識を持つだけならば自由ですが、それを表明することは全く認められないのです。

ですから、「LGBTの価値や生き方を認めましょう!」「LGBTも平等です! 」と学校で教え込まれるのは、イスラム教徒としては大変な迷惑なのです。

イスラム教徒は自分たちこそ「保護されるべきマイノリティ」だという認識があるので、「LGBTの価値を押し付けられるのはそれと矛盾するイスラム教の価値を軽視しているという点で差別的であり受け入れられない」、と主張しているのです。

一方、LGBTの側もイスラム教徒に「お前たちの価値は受け入れられない」と言われているわけですから、これは差別だと感じられます。

特に問題となった学校はイギリスの教育監査局オフステッドから高く評価されている普通教育を施す学校であり、決して宗教学校ではありません。

多様性のある社会を実現させようという流れの中で、なぜ自分たちがイスラム教徒に遠慮しなければならないのか、そんなことがあっていいわけがない、という主張も理解できます。

私はここで、イスラム教徒とLGBTのどちらに味方すべきか、という話がしたいわけでは全くありません。

私の目的は、マイノリティが個々の権利、利益を主張すればするほど、社会は分断されるという現象の具体例を示すことです。

今回のような事件が発生すれば、イスラム教徒も「LGBT教育反対!」という人と、「LGBTについて学ぶくらいはいいんじゃないの?」と考える人と、「俺/私も実はLGBT」と主張し始める人と…とさらに分裂するでしょう。

(実際、バーミンガムにはイスラム教徒LGBTの組織があります。)

LGBTの人々も「イスラム教徒もLGBT平等を認めるべき!」という人と、「イスラム教徒はLGBTを認めなくてもいいけどLGBT授業はすべき」という人と、「イスラム教徒にはLGBT授業は不要」という人と…とさらに分裂するでしょう。

多様性のある社会と聞いて想定するのは、様々な人種、宗教、文化、性的指向を持つ人々が、互いに認め合い、時にそこから新たな融合文化が生まれ出るような、ニューヨーク的な、理想的な社会かもしれません。

しかしバーミンガムの事例が示すのは、様々な特性を持つ人々同士は、互いを認め合うことがないどころか、互いの存在を否定し合い、権利を主張しあって争い合い、文化や社会は融合するどころかますます亀裂が増え分断が進むことがある、という事実です。

日本は欧米から何周も遅れて外国人労働者を受け入れることを決定し、今更のように「多様性のある社会を実現させよう!」と政界や経済界が声を合わせて主張し始めました。

私たちは、実態のない妄想としての理想的多様性社会を夢見るより、実態としての多様性社会でどのような問題が生じているか、それはどのようにこじれ、どのような解決をみるのかについて、注視しそこから学ぶべき時期にきているように思います。

2019年3月4日月曜日

イスラム教権威の「一夫多妻は女性に不公平」発言に大衆大激怒

2019年3月1日、エジプトのイスラム教研究・教育機関アズハルの総長アフマド・タイイブ師が国営テレビの番組に出演し、「一夫多妻は多くの場合女性と子供にとって不公平だ」と発言し、SNSでイスラム教徒大衆が大激怒する炎上騒ぎとなりました。


 タイイブ師は、エジプトの法で女性相続者の相続分が男性相続者の半分とされているのは改正されねばならない、なぜなら女性は我々社会の半分を構成しており、女性の利益を顧みないことは我々が片足で歩くようなものだからだ、と語ります。

そして相続だけでなく結婚における女性への不公平も改正していかねばならず、結婚の基本は一夫多妻だと主張する者は間違っており、コーランにおける結婚の基本は「もしあなた方が公平にはできないかもしれないと恐れるならば一人だけ娶れ」、つまり一夫一婦制だと述べました。

というのもタイイブ師曰く、「一夫多妻は非常に多くの場合において女性と子供たちに とって不公平」だからであり、イスラム教徒には一人だけでなく二人目、三人目、四人目の女性と結婚する「自由」があるのではなく、一夫多妻が例外的に許可されるためには複数の妻に対して公平であることが条件とされる、とのこと。

しかもこの場合、一夫多妻をとりあえずやってみて、それで公平にできるかどうか判断する、できなければ離婚する、といったやり方は認められないのであり、公平にできないかもしれないという恐れがほんの少しでもあるなら一夫多妻は認められない、と論じられています。

テレビでこの議論が放送されると、タイイブ師は一夫多妻を禁じようとしていると解釈した一般のイスラム教徒達が、一斉にSNSでタイイブ師を批判し始めました。

「黙れ。」
 「大嘘つき。」


 「無知蒙昧はもうたくさん。」


アズハル総長はエジプトのイスラム教の一大権威者です。その権威者がエジプト国営テレビで述べたイスラム教についての見解に対し、一般のイスラム教徒がこの反応です。

イスラム教は無知蒙昧だった「無明時代」に光をもたらしたと人々に信じられています。ところがそのイスラム教の伝統の護持者のトップに対し、在野の一般信者が「無知蒙昧」と罵詈雑言を投げかけるのですから、よほどのことです。

というのも、この議論は一見してコーランの有名な章句に抵触すると理解されたからです。

「アズハル総長が一夫多妻は不公平と論じるとは一体どういうことだ? 至高なる神が「あなたがたがよいと思う2人、3人または4人の女を娶れ」とおっしゃっているというのに。」


「啓示は貧乏な男にも金持ちの男にも四人の妻を娶ることを合法としているんだよ。」



「イスラム教徒の学者達はみな彼の見解に意義を唱えるね。」


「アズハル総長がこんなことを言うなんてありえない。強大なる神を畏れるべきだ。こんなことを言うなんてハラーム(違法行為)だ。」


「残念だけどタイイブ師は間違えてるし、離婚を増やすだけだね。確かに結婚において公平は義務だけど、彼が言ったようなやり方じゃないよ。」


インターネット時代を生きる今のイスラム教徒大衆は、かつての識字能力も論理的批判能力も持っていなかったイスラム教徒大衆とは異なります。

彼らはもはや、政治権力に取り込まれ地位と名誉と給料を与えられ「偉い」ということにされている宗教権威が、テレビやモスクで説くイスラム教を盲目的に信じる従順な大衆ではないのです。

インターネットの普及により、彼らはインターネットを通じてやすやすと啓示にアクセスし、特定の問題について何がイスラム教的に正しい、啓示に立脚した規範であるかを見極める能力を身につけました。

そして彼らは、「啓示に立脚する」というイスラム教で伝統的に正しいとされるやり方を踏襲することによって伝統的な宗教権威者の議論に挑戦し、反駁する能力を身につけました。

彼らはSNSで批判的コメントを書き込むことにも、全く躊躇はありません。

むしろ、イスラム教を歪曲しようとする不正なる「御用学者」は、どんどん批判しなければならないのです。

タイイブ師のこの議論については、このような書き込みもありました。

「シシ(エジプト大統領)の御用学者だな。 」


これぞまさに、私が昨年からあちこちで主張してきた「イスラム2.0」時代を象徴する現象です。

インターネットの普及により「イスラム法的リテラシー」を身につけ、脳内のイスラム・ソフトを「イスラム2.0」にアップグレードさせたイスラム教徒たちは、もはや御用学者が適当な議論で簡単にコロッと騙せるような「ちょろい」存在ではなくなっているのです。

先月、タイイブ師がカトリック教会のローマ教皇とともにUAEに招かれ、あたかもイスラム教徒を代表する最高権威であるかのような扱いを受けたことを皮肉るコメントも多くありました。

「アズハル総長はUAEから戻ってから感電したんだな、きっと。」


きっと脳の血管が切れて頭がおかしくなっちゃたんだね〜という、強烈な皮肉です。

一般のイスラム教徒は、西洋やイスラム諸国支配者の企みにも、ちゃんと気づいています。

「イスラム教の中にタイイブ師の言うようなものはない。これは西洋の伝統だ。西洋はアズハル総長をカトリック教会のローマ教皇のようにイスラム教徒達の最高権威に祭り上げようとしているがそんな努力は無駄だ。我々はコーランと我々の預言者のスンナにしか従わない。」


もはやイスラム諸国の支配層は、かつてのように簡単には大衆を騙したり、支配したりすることはできないのです。

テレビ放送の二日後、アズハルは公式HPで「タイイブ師は決して一夫多妻を禁じようとしているわけではない。 コーランやスンナの規範に反するような法を作ろうなどという趣旨は全くない」と釈明する声明を発表しました。

もちろん、「人々がタイイブ師の議論を誤解しただけだ」というのがアズハルの言い分です。 しかし、アズハル総長のイスラム法解釈に在野の一般大衆が噛みつき、それに対してアズハル本体が釈明するというのは、新しい現象です。

これまでイスラム教の知的資源と地位を独占してきたエリート層は、インターネットの普及に伴う「イスラム2.0」へのアップグレード現象の急速な拡大により、その地位を確実に脅かされつつあります。

「イスラム2.0」的な現象は、今後も世界各地で多く出現することになるでしょう。

2019年1月29日火曜日

「イスラム教の宗教改革」について考える

エジプト当局がイスラム教の宗教改革に向け新たな一歩を踏み出しました。

国内外のイスラム教指導者のトレーニング施設、その名も国際ワクフ・アカデミー(IAA)の新設です。

エジプトのシシ大統領はかねてより、イスラム教を近代に調和させるために、イスラム教の諸概念を再定義し、それによってイスラム教についての言説を刷新しなければならないと主張してきました。


また早期・具体的にそれに着手するよう、エジプトの二大宗教権威であるアズハルと宗教省に再三要請してきました。


 IAAはエジプト宗教省主導のプロジェクトです。

オープニング式典でエジプトの宗教大臣は、「IAAはイスラム教についての言説刷新への呼びかけへの第一歩」であり、それは「イスラム教の知的閉塞と過激派に立ち向かう」ためであると述べました。

これは、IAAを拠点にイスラム教の宗教改革を行っていくという宣言だとも解釈できます。

式典に参列したドイツのミュンスター大学イスラム神学センター長もこれを、「イスラム的啓蒙を促進する上で非常に重要な第一歩」だと評価。

同アカデミーは、穏健なイスラム教のイデオロギーを広め、イスラム教についての言説の刷新に貢献し、多くのヨーロッパのイスラム教指導者をトレーニングすることになるだろうと期待を表明しました。

エジプト宗教省報道官によるとIAAは、

1)シシ大統領の「イスラム教についての言説を刷新せよ」という要請に応えるためのプロジェクトの一環
2)イスラム教についての誤解の払拭を目指す
3)国内外の男女のイスラム教指導者に対し6ヶ月間のトレーニングを施す
4)カリキュラムは啓蒙された科学的なもので、宗教(イスラム教)だけでなく経済、政治、心理学などの講義も含まれる

といった特徴を有し、ここで訓練を受けたイスラム教指導者は

1) イスラム教についての穏健かつ新しい展望
2)イスラム教のイメージをよくするための方法論
3) 過激派やテロを促すイデオロギーを否定するための方法論

などを身につけることが期待されているとのこと。

多くの人が誤解しているのですが、拙著『イスラム教の論理』にも記したように、現代のイスラム教指導者は、

「イスラム教の価値観は近代の価値観と矛盾する」

ことを認識しています。

イスラム教は神が創った神中心の規範ですから、人間が創った人間中心の規範を旨とする近代と矛盾するのは当然であり、イスラム教が比較するまでもなく近代より優れた規範であるのも当然です。

イスラム教は近代的だから素晴らしいのではなく、近代などというものをはるかに超越しているからこそ素晴らしいのです。(ゆえに、イスラム教は近代と矛盾するという私の指摘に対して「ヘイト」だと罵ることは見当違いも甚だしいのです。)

問題は、その先です。

エジプトの場合、政治権力者であるシシ大統領は、「だからイスラム教を近代に合うように改革しなければならない」と主張しています。

一方、イスラム教の研究・教育の殿堂であるアズハルは、シシ大統領の言い分は理解できるので妥協できるところは妥協するが、だからといってイスラム教の伝統全てを一掃するわけにはいかない、という立場です。

イスラム国は悪だが反イスラムだとは言えない、といったアズハル総長の発言は、伝統的なイスラム教の論理に則れば実にイスラム的に正しい発言ではあるのですが、シシ大統領はこれを煮え切らない態度とみなしイライラしてきた節があります。

実は今回の宗教省によるIAA新設の直前に、アズハルも自前のイスラム教指導者訓練所を新設しています。

ただしアズハルの方はイスラム教についての訓練のみで、政治・経済といった他分野の訓練は行われません。

IAAの講師陣にはアズハル教授らも含まれ、表面的には両者が対立しているわけではありません。

ただこれまでの経緯からは、エジプトが宗教省主導ですすめようとしている宗教改革がイスラム教の伝統をバッサリ切り捨て近代との調和を主目的にしている以上、アズハルと協調路線を取るのは難しいように思います。

IAAの試みについはサウジ当局も支援・協力を表明してはいますが、やはり世界中の全イスラム教徒の多くが賛同するとも考えにくいのが実情です。

なぜならイスラム教というのは神の啓示を字義通り虚心坦懐に受け止め、神の啓示に示された神の規範に従って生きることが神の奴隷である人間の務めであるという信念を根幹とする宗教だからです。

神の啓示・規範を、人間の生み出した「近代」という価値に適合するように解釈し直すことは、イスラム法の方法論を駆使すれば可能ではあります。

というか、この世に存在するほぼ全てのもの・ことについて、イスラム的に合法だと判断したければ判断できるし、違法だと判断したければ判断することができるという、イスラム法にはそうした側面があります。

この方法論を生み出してきたのは歴代のイスラム法学者たち自身ですが、彼らはそうした「禁じ手」を使うことに対して極めて謙抑的でした。

やろうと思えばできることを彼らがしてこなかったのは、そこに神への畏怖、自戒の念があったからに他なりません。(なお、これは私の博士論文のテーマでした。)

アズハルがシシ主導の宗教改革に及び腰である理由もまた同じです。

またいくらイスラム法の方法論上イスラム教を近代に調和させることが可能でも、それ以外の、啓示の文言に忠実で近代に調和しないイスラム教解釈を不正として禁じることは、イスラム法の枠組み内では不可能です。

それは国家権力を動員しなければできないことであり、この国家権力自体が啓示に忠実なイスラム教解釈上不正と見なされることは指摘しておく必要があるでしょう。

要するに、宗教改革によって過激派を抑え込むというのは斬新で抜本的な方策であるように見えて、実は国家権力の動員によって過激派を抑え込む従来のやり方と本質的に同じなのです。

果たしてこの試みが、イスラム教のイメージをよくしイスラム過激派を抑え込むという目的の達成にどの程度貢献することになるのか。

100年後くらいにようやく見えてくるものがあるような気がします。

2018年3月13日火曜日

教育から宗教の影響を排除せよ:スウェーデンの決定とイスラム教

 スウェーデン教育相は先日、今後は男女平等や人権という「根本的価値」を支持しない者には学校運営を認めないという方針を新聞紙上で発表しました。

現政府は学校から宗教の影響を排除するという基本方針を掲げており、今回の決定はその方針に従ったものだとみられています。

スウェーデンにおける学校は男女平等を積極的に促進し、生徒たちがジェンダー・アイデンティティーとは独立した形で能力や関心を開発させることを認めなければならない、と同相は記しています。

さらに、スウェーデンの子どもたちは、たとえ宗教組織によって設立された学校においてであろうと、直接的あるいは間接的に宗教活動を強制されることは絶対にあってはならないとし、全ての教育は宗教の影響から完全に自由でなければならないという基本方針を強調してもいます。

スウェーデンには現在60以上の宗教学校があり、そのほとんどはキリスト教系で、イスラム教系の学校は11あるとのこと。

この決定は、ソマリア系イスラム教徒で2010年から2014年までスウェーデン議会の議員も務めていたワベリAbdirizak Waberi氏が、ボロースで新たなイスラム教系学校設立を目指していることと関係していると言われています。


ワベリ氏は政治活動を開始する以前は、スウェーデンのヨーテボリにあるイスラム教系小学校の校長でした。

同校ではイスラム教の教義についての授業を週に2コマ課しており、これは他の学校よりも多いだけではなく、男は4人妻を持つことが許されているがその逆は許されていないといったイスラム教的価値について教えているとか、男子生徒は100%が満点で卒業しているのに女子生徒は71%しか満点をもらっていないという同校の実態はスウェーデンの他の学校と比べて明らかにおかしいなど、しばしば批判の対象とされてきました。

ワベリ氏自身も、イスラム教徒の男が4人妻を持てることや、イスラム教徒の男は異教徒と結婚できるが女はできないことなどは、コーランに記されているのだ、とインタビューで答えています。

ワベリ氏はスウェーデン・イスラム協会や、スウェーデン・イスラム教学校組合、スウェーデン・イスラム教徒政治フォーラムといったスウェーデンの名だたるイスラム教組織の有力メンバーであるだけでなく、過去にはヨーロッパ・イスラム組織連盟の副会長を務めたこともある、非常に影響力のある人物です。

過去の記事で示したように、ヨーロッパにおいてこれまではほぼ放任されてきた宗教系の私立学校を国が管理すべきだという議論は、既にイギリスでも起こっています。

というのも、イギリスではイスラム教学校において教師が生徒をジハード戦士に育てるべく数年間にわたって教育していた罪で実刑判決を受ける、という深刻な事案が既に発生しているからです。

「イスラム教の論理」と「西洋の論理」が異なることは、イスラム教徒住民が多く暮らすヨーロッパ諸国では、様々な場所で目に見える形で健在化し、社会問題化あるいは政治問題化しているのです。

イスラム教と教育の問題については、日本も他人事ではありません。

日本でも、イスラム教組織やモスクなどがイスラム教徒の子女にイスラム教の教義や価値について教える学校や教室を多く運営しています。

また、日本の学校で教えられることはイスラム教の価値に反するとして、自分の子どもが学齢期になるとインドネシアやパキスタンなどに住まわせ学校に通わせる在日イスラム教徒も少なくありません。

イスラム教と教育という問題は、単に給食をどうするか、という問題ではないのです。

2018年3月5日月曜日

DVのアザはメイクで隠せ?!:イスラム世界の女性に対する暴力再考

3月8日は国際女性デーです。

イスラム世界において女性が抱える問題は多岐に及びますが、今日は女性に対する暴力について、1年前にモロッコの国営放送でオンエアされ大論争を巻き起こしたテレビ番組をご紹介したいと思います。


これは、司会者の女性がDVで夫などに殴られ顔にアザができてしまった女性に対し、アザを隠すためのメイク方法を伝授する、という趣旨の番組です。

もちろん、番組に出ていた女性は本当のDV被害者ではなく、アザも特殊メイクで作ったものです。

司会者は、「今日は女性に対する暴力撤廃の国際デーにあわせて、 痛ましいテーマですが、殴られてアザができてしまった場合のメイク方法についてとりあげたいと思います」と言って番組を始めます。

「残念なことに殴られたことでアザだらけになってしまった女性」に対し、司会者は 「グリーンのコンシーラーを赤い打撲痕に少しずつ重ねます」「殴られたこの部分は、所は非常にデリケートになっているので、強く押してはいけません」「ルースパウダーを上に乗せてください、そうすれば一日中アザを隠しておくことができます」と述べるなど、かなり実践的。

おまけに、「日常生活の中でパートナーからDVを受けることは普通のことです。彼からDVをうけても、何事もなかったように振舞いましょう」「これは私たちが公言してはいけない問題です。でも残念なことに、これが事実です。私たちはこの番組が、女性たちにとって普通の生活を営む上で役に立つことを願っています」などとも言っています。

この番組は放送後、「女性へのDVが普通であることを前提としている」「メイク方法ではなく男性にDVをやめる方法を教えるべき」「女性に対し、暴力に抗議するより隠せと勧めているのか」等々と非難を浴び、それをうけて国営放送はインターネットから動画を削除し、謝罪をするに至りました。


しかしモロッコで、女性に対する暴力が日常的なものであるというのは、モロッコ人にとってはごく一般的な認識であり、 モロッコに住んでいた私にとってもそれは同じです。

2009年に発表されたモロッコ政府による調査でも、18歳から65歳までの女性の3分の2近く(62.8%)が身体的、精神的、性的、経済的暴力を経験しているとされています。

拙著『イスラム法の論理』でも記したように、イスラム法の中には女性に対する暴力を肯定する要素があります。

今はただ、女性を殴るのは普通だと男性の多くが考えるような社会が、少しずつでも変化してほしいと願うばかりです。

2018年3月3日土曜日

無神論者vsイスラム教徒:エジプトのトークショーで大波乱

先月エジプトのトークショーで、「オレは無神論者だ」と宣言した若者がスタジオから追放される、という「事件」が発生しました。



 司会者に、「君の考えを視聴者にもわかるように説明してくれたまえ」と促されたこの若者は、「自分は無神論者で、神の存在も信じないし、宗教も信じていない」と述べます。

それを聞いたエジプトにおけるスンナ派の権威アズハルの元副総長マフムード・アシュール師は、文字通り目を丸くして「え?え?え???」と聞き返します。

すると若者は再度、自分は無神論者だと繰り返し、「自分にはきちんと倫理観が備わっていて、社会人としても社会に貢献できているので、宗教など必要としてない」と述べます。

彼はデンマークなどヨーロッパ諸国の倫理性の高さなどについて述べるも、イライラしたアシュール師に「君は仕事をしているのか?」とか「ご両親は何をしている?」などあれこれ聞かれ、「そういった個人情報についてはここで口にする必要はないはずです、自分の考えについて述べる為にここにいるはずじゃないですか?」と答えたことで、師と司会者をさらにイライラさせます。

司会者に「君は本当に宗教や神と完全に決別したというのか?」と聞かれた若者は、「そうですよ」と軽く答えます。

アシュール師に無神論者である理由を説明するよう求められると「神がいるという証拠が全くないからだ」と述べます。

それに対して司会者はただちに、「君は神がいるという証拠がないというが、それじゃあ君を創造したのは誰なんだ?君が人間として今ここにこうして存在しているのはどういうわけだというんだ?!」と突っ込みます。

それに対して若者は、「地球がどのように誕生したかについてはいくつかの説があるが…」と言い始めるものの、それをマフムード師は 「君はいかにして人間になったのかと聞いているんだ」といなします。

若者はこれに対し、「我々の存在を説明づける理論はいくつか存在しており、そのひとつに神が創造した、というものがあります。他にもビッグバンのように…」と話し始めるも、再度司会者が「おいおい君、そんな妙な言葉を使わずアラビア語で話したまえよ、我々はエジプトにいるんだし、エジプトの一般大衆はそんな言葉を言われてもわからないじゃないか」と横槍をいれます。

若者は「でも科学というのは英語で語られるものなので…」と言い淀むも、司会者に「君はいったい、なんの科学について話をしているんだ??」となぞのツッコミを入れられます。

司会者は、「君は混乱して自信を失い、神の存在を否定し、我々の宗教や信条を拒絶している。君はいったい、なんなんだね?!」と興奮。

これに対して若者は、「それは悪いことですか?」と尋ねます。

司会者は「もちろん最悪だよ。君はなにか考えを述べる為にここに来たはずなのに、考えなどないじゃないか。君が述べているのは無神論と不信仰だぞ。私は視聴者に、こんなエジプト人を我々の番組に出してしまったことを謝罪しないといけない。視聴者のみなさん、本当に申し訳ありません。そして君、ムハンマド、我々は君とは一緒にいられない。残念だが、君の考えは不適切であり、そのような破壊的な危険思想をこの場で広めることは認められない!」と一気にまくし立てます。

マフムード・アシュール師は「ムハンマドよ、君には精神科の治療が必要だ」と述べ、司会者も「私は君に、このスタジオから直ちに立ち去り、その足で精神科に直行することをおすすめする」と述べます。

そして「残念だが君の考えはエジプトの若者にとって危険で最悪だ、君はエジプトの若者にとって最悪の見本だ、君ともうこれ以上ここに一緒にいることはできない」と再度退場を促します。

〜〜〜〜〜

これはお芝居ではありません。

これは、エジプトというイスラム教徒がマジョリティを占める国において、自分は無神論者だと公言する人間が出現した場合に予想される、最も寛大な反応の例だと言えるでしょう。

拙著『イスラム教の論理』にも記したように、イスラム法においては、神はいないと公言することは背教罪を構成し基本的に死刑が相当と定められています。

エジプトでも先ごろ、ファトワー庁が「SNSを介して無神論が広まらないように警戒しなければならない」と注意を促しています。

2018年2月5日月曜日

少年兵訓練に食料配布、処刑…:シリアのイスラム国の再活動


イスラム国が2017年10月に最大拠点としていたラッカを失ってから3ヶ月あまり。

シリア国内でのイスラム国との戦いはいまだ継続中ですが、一方でイスラム国は戦闘以外にも様々な活動を再開させているようです。

先週、ダマスカス地域にある少年兵の訓練キャンプの様子が公開されました。

おなじみの一本指ポーズ。手前にうつるのは、いつものように美少年。


馬跳び?


体は少しかたいようです…。


もちろん銃の訓練も。


成績優秀者は表彰されます。



少年兵の訓練というのは、イスラム国の次世代を担う人材が今も着実に育成されていることを示すのに好都合であるため、イスラム国が好んで公開するモチーフのひとつでしたが、軍事的窮地が続いていたこともあり、久々に見た感があります。 

また昨日は、イドリブで小麦を配布する映像が公開されました。

小麦があります。


 なにやら、帳面を確認するおじさんたち。


小麦を袋詰めします。


トラックに載せます。


 神のおかげで必要とする人々に小麦を配ることができます、と説明する人。


食料配布というのは、イスラム国が支配地域で実践してきたイスラム法規定の適用のひとつで、イスラム国は自らが確かに「神の法」による統治を行う主体であるとアピールするために好んで公開してきました。

これもまた、軍事的苦境が続いているうちはほとんど見られなかった様子です。 

イドリブでは、宣教活動も行われているようです。


軍事面でも、ドローンに小型爆弾を積んでシリア政府軍の拠点に落っことしたり…




車椅子にのった戦闘員が自爆攻撃をしたり…


政府軍のスパイとされる人を処刑したり…


一見すると、最盛期と変わらないくらい多様な活動を展開させているかのようです。

もちろん、イスラム国は主たる支配地域を失い、たくさんの戦闘員も失いました。

有志連合によるデリゾールへの空爆も継続中ですし、シリア政府軍はハマーの拠点に対して総攻撃を開始しました。

しかしまだイスラム国勢力はシリア国内に確かに存在しており、「瀕死の状態」でもないのです。

2018年2月2日金曜日

黒魔術とイスラム教:インドネシアのイスラム教徒の多様性


インドネシア警察は先日、夫と娘の遺体が「生き返る」と信じて埋葬せず数年間「同居」していた女性の存在が発覚したと発表しました。


警察によると、ネネン・ハディージャという名の77歳の女性は、2年前に50歳で死んだ娘の遺体と、昨年末89歳で死んだ夫の遺体に布をかけた状態でベッドに寝かせており、周囲にはコーヒーの粉がまかれていたほか、たくさんの香水瓶も発見されたとのこと。

ネネン・ハディージャさんは、「遺体の世話をすれば生き返るだろう」と囁く声を聞いた、と警察に話しているそうです。

名前や運ばれていく棺を見る限り、ネネンさん一家はみなイスラム教徒です。

運ばれる棺

イスラム教においては、死者は終末の日によみがえり最後の審判を受ける、とされています。

死者は土の中に埋葬され、その状態でよみがえりの日をひたすら待つのです。

イスラム教の教義ではもちろん、それ以外のかたちで死者が「生き返る」ことを信じるなど認められまん。

ところが一方では、実際にそれを信じ黒魔術のような行為を実践しているイスラム教徒もいるのです。

イスラム教と呪術信仰やアニミズムが混淆しているのは、インドネシアだけではありません。

アフリカや中東アラブ地域でも、そうした信仰のかたちは存続しています。

魔術や占いの類は、イスラム法では禁じられています。

しかしそれらは一部のイスラム教徒のなかに、信仰の一部としてしっかりと根付いているのです。

私が住んでいたモロッコやエジプトでも、魔術師や占い師の摘発や逮捕は三面ネタの常連でした。

聖典「コーラン」のテキストにひたすら忠実に生きることを「正しい」と信じるイスラム教徒がいる一方で、「コーラン」で明示的に禁じられている呪術を実践しても別に差し支えないと素朴に信じるイスラム教徒もいるのです。

2018年1月29日月曜日

トランスジェンダーは「逮捕」「矯正」の対象:インドネシアのLGBTの受難

昨日(1月28日)、インドネシアのアチェでトランスジェンダーの女性12人が逮捕されました。

インドネシア紙の報道によると、 昨日早朝、北アチェのイスラム法警察がトランスジェンダーの「サロン」5箇所に次々と立ち入り、合計12人のトランスジェンダーを逮捕した、とのことです。

 インドネシアではトランスジェンダーのことをワリアwariaと呼ぶそうで、これは「男女」といった意味の言葉だそうです。

北アチェ警察の署長によると、12人は警察署に連行され、頭を丸刈りにされた上で、男の服を与えられ、その上で、走り回ったり、男の声が出るまで大声で叫ばせる、といった訓練を受けている、とのこと。

同署長は、こうした作戦はインドネシアの次世代に甚大な悪影響をおよぼすLGBTの増加を防ぐために必要であり、イスラム教法学者のお墨付きも得ている、としています。

インドネシアは多民族多宗教の世俗国家を標榜しているため、LGBTを規制する法はないのですが、例外がこのアチェです。

というのもアチェはインドネシアで唯一、イスラム法の施行が認められている地域だからです。

イスラム教では、神は人間を男と女として創り、男と女が結婚して子をなすという秩序を創ったと信じられているため、イスラム法はトランスジェンダーや同性愛行為を禁じます。

イスラム法において重要なのは、その人の外見が男なのか女なのかということであり、その人の内面の性別がどうなのかというのは、考慮の対象外です。

ですから、外見が男性であって心が女性の人がいたとしても、その人が男性として社会生活を送っていればそれ自体はなんの問題もないわけです。

ところが、外見と内面の性別を一致させたい!と、男性なのに女性の服装をしたり、髪を伸ばしてお化粧したり、性転換手術をうけたり・・・といったことは、神の創った地上の秩序に対する冒涜となるため、認められません。

そのためアチェにおいては、「男女」は逮捕されて警察に連行され、丸刈りにされて男の服を着せられ、走らされ、男らしい声が出るまで叫ばされる、という憂き目にあうのです。

インドネシアでは現在、アチェだけではなく国全体でLGBT規制を法制化する動きがあります。

LGBTの受難は続きます。

★ホウドウキョクの飯山陽のページにも転載されています。 

2018年1月19日金曜日

ビットコイン禁止令:仮想通貨はなぜ禁じられるのか


昨今のビットコイン急落の背景には、世界各国におけるビットコイン取引規制強化への懸念があるようです。

中国や韓国で規制の動きが見られる一方、イスラム世界では各地の宗教指導者たちがビットコイン禁止令を発令しています。

2017年11月には、トルコの宗務庁が「ビットコイン取引はイスラム教と矛盾するので、イスラム教徒がそれを行うのは不適切である」とするガイドラインを出しました。

同年12月には、サウジアラビアのイスラム法学者アーシム・ハキーム師が自身の番組で「ビットコインはイスラム教では禁じられる」と 述べました。


さらに同月、今度はエジプトで最高の権威を認められているイスラム法学者シャウキー・アッラーム師が「ビットコインはイスラム教では禁じられる」という宗教令を発行しました。



これらの宗教令は、イスラム教がビットコインのような仮想通貨を禁じる理由をいくつかあげています。

そのひとつが射幸性です。

イスラム教はコーランにもとづき、賭博を禁止しています。

「賭博=射幸性のあるもの」と解釈されているため、投機性の高いビットコイン取引もその禁令に抵触するというわけです。

別の理由としては、ビットコイン取引が「顔の見えない」取引である点があげられます。

イスラム教はコーランにもとづき、不等価交換を禁止しています。

利子が禁じられるのも、この不等価交換禁止にもとづいています。

また等価交換の場合にも、取引の当事者が同時に手渡しで交換しなければならないとされています。

ビットコインは価値が定まらない上に仮想通貨ですから、手渡しでの交換などもとから想定されていません。

また、ビットコイン取引が自分や他人に害を及ぼす危険性が高いことも理由としてあげられています。

イスラム教は「自分にも他人にも害を与えてはならない」という預言者ムハンマドの言葉(ハディース)を法諺として重視しています。

ビットコイン取引は失敗すれば個人を破産に追い込む可能性があります。

よってこの法諺に抵触する、というわけです。

トルコやサウジ、エジプトでは、国家が正式な形でビットコイン取引を禁じたわけではありません。

しかしこれらの国の多数派を構成するイスラム教徒たちは基本的に、国の決定などよりも日々をイスラム教の教えに従って生きることのほうを重視します。

ですから、イスラム教で禁止と言われれば当然ビットコイン取引にはブレーキがかかることになります。

ビットコイン急落には、こうしたイスラム教の論理が少なからぬ作用を及ぼしている可能性があります。

★フジテレビ「みんなのニュース」で取り上げられ、インタビュー出演しました。
★ホウドウキョクの飯山陽のページにも転載されています。 

2018年1月18日木曜日

墓石破壊で存在を誇示:シリアのイスラム国の今


イスラム国が昨日、シリアのイドリブで墓地を破壊する写真を公開しました。

墓石を倒します。



墓石をたたき壊します。


「あれ?イスラム国ってもう崩壊したんじゃなかったっけ?」と思われる方もいるかもしれません。

確かにイスラム国は2017年10月、シリア最大の拠点ラッカを失いはしました。

しかし彼らはシリアだけではなく、世界中にまだ存在しつづけています。

そもそも欧米メディアとそれに便乗する日本メディアはこぞって、ラッカのことを「ISが首都と位置付ける」とか「ISが首都と称する」などと書き立ててきましたが、イスラム国はラッカを首都と位置付けたこともなければ、首都と称したこともありません。

ですから、「イスラム国の首都ラッカが陥落した。だからイスラム国は崩壊した」というロジックは、(ロジックとは言えないほどお粗末なのが実態ですが。。。)そもそも成立しえないのです。


先日(1月14日)ドイツの国防相が「イスラム国との戦いはまだ終わっていない」と述べたことに見られるよう、世界中の治安・諜報当局者がイスラム国の脅威は未だに失われていないという認識を共有しています。


イドリブは現在、シリア最大の激戦地です。

アルカイダ勢力の最後の砦であるイドリブを奪還すべく攻勢をかけているのはシリア政府軍ですが、一方でその政府軍を攻撃して僅かながらも戦果をあげているのがイスラム国です。


イスラム国支持者の公開したインフォグラフィックによると、1月10日から14日までの4日間に、イスラム国はイドリブとハマーの郊外で30人の兵士を殺害し、17人を捕虜にしたとされています。



彼らが墓地を破壊する写真を公開したということは、一時的であれ、彼らがその墓地の存在する一帯を手に入れたということを意味します。

イスラム国は、墓石など、そこが墓であることを示すものを設置することは神の法に反すると理解しているため、支配地域に墓地があるとほぼ確実にそれを破壊します。

それにより、イスラム法の定める「勧善懲悪」を明示するのが目的です。


現在シリア政府軍にとって、最大の敵はイスラム国ではなくアルカイダです。

・・・アルカイダというか、本人たちは「シリア解放委員会」なる武装組織連合を名乗っているのですが、実態はシリアのアルカイダとそれに仲間入りした地元武装組織、そこに加勢するウイグル人武装組織(トルキスタン・イスラム党)など別のアルカイダ系外国人組織などの集合体です。

現在だけではなく、イスラム国がラッカからデリゾールにいたる広大な地域を支配していた頃も、イスラム国はシリア政府軍にとっての最大の敵ではありませんでした。


しかし一方で、イスラム国は今でも既述のイドリブだけではなく、ハマー郊外の一部、首都ダマスカスにあるヤルムーク・キャンプの一部、ダマスカス南西に広がる一帯の一部などを支配し、小規模ながらも活動を継続させています。



「イスラム国は崩壊した」という判断は、シリアの現状を見ただけでも時期尚早と言えるでしょう。

★ホウドウキョクの飯山陽のページにも転載されています。 

インドのエビ禁止令:ハラール認証再考


先日インドで、「イスラム教徒はエビを食べてはならない」という法令(ファトワー)が出されました。

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これを発行したのは、ハイデラバードにあるニザーミーヤ学院の大ムフティーであるムハンマド・アッザームッディーン師です。

同学院は142年の歴史を誇る伝統的イスラム法学校。

大ムフティーというのは、そこでもっとも権威のある見解を示すことのできる法学者のことです。

同法令によると、エビは虫と同じ節足動物であって魚ではないため、イスラム教徒は食べてはならない、とのこと。

「食べてはならない」とは言っても、これはイスラム法学上「強く忌避される」というカテゴリーであって、正確に言うならば禁止ではなく、またこれを食べたからといって刑罰を受けるようなこともありません。

このニュースは、インドの他に、エビ大好きなタイなどの東南アジア諸国でも伝えられ、「エビは虫だったのか?!」とちょっとした衝撃を社会に与えていますが、実はエビをめぐる議論も同師の見解も決して新奇なものではありません。


エビなどの魚介類を食べてもいいか(=ハラールか)についてのイスラム法の議論は、非常にややこしいのですが、その原則は「魚は食べてもいい(=ハラール)」というものです。

とすると、次に問題となるのは「エビは魚なのか?」という件です。

同師は「エビは魚ではなく虫のような節足動物である」とみなしたため、「エビは食べてはならない(=ハラーム)」と結論づけたのです。


一方で、歴史的には大多数のイスラム法学者たちが「エビは魚なので食べてもいい(=ハラール)」と論じてきました。


話がややこしくなってきましたが、要するにイスラム教徒はエビを食べてもいいのかダメなのかというと、結論は「どちらでもいい」ということになります。

なぜならイスラム教徒は、エビを食べてもいい、という法学者の見解に従っても、食べてはいけないという法学者の見解に従っても、どちらでもいいとされているからです。

それじゃなんのための議論なんだ?!ということになりかねませんが、実はこうした問題は議論すること自体に意義があるのであり、ハラールなのかどうかを一義的に決定し、その決定を全イスラム教徒に押し付けることなど毛頭意図されていないのです。


イスラム教徒が何なら食べていいのか、何を食べてはいけないかの正解を本当に知っているのは、神だけだと信じられています。

ですからイスラム教徒は、神にはっきりと口にすることを禁じられている(=ハラームだとされている)豚、酒、血、死肉といったもの以外に関しては、自分でよく考え、あるいは自分の信じる学者の見解に従って食べるかどうかを判断すればいいのです。

学者は古典的な問題であれ新奇な問題であれ、必要に応じてイスラム法に立ち返り法令を出せばいいのであって、イスラム教徒からすればオプションが増えるようなものです。

日本でも、東南アジアからの外国人観光客数増加や2020年に東京オリンピックが開催されることなどを受けて、レストランや食品は「ハラール(許可)」認証を受けるべきだという論調が高まっているように見受けられます。

しかしイスラム教の基本ルールはあくまでも「神がハラーム(禁止)だとしたものだけは食べてはいけない」というものであって、「誰か、あるいは何らかの組織がハラール(許可)だと認証したものだけを食べていい」というものではありません。

このふたつは、似ているようで全く異なります。


確かに、公的なハラール認証制度が導入されているマレーシアやインドネシアのイスラム教徒に関しては、ハラール認証を「気にする」人の率が高いと言えるでしょう。しかし世界中すべてのイスラム教徒がそれを「気にする」あるいは「信じる」わけではありません。



イスラム法におけるハラールとハラームの問題は、「ハラール」というマークがついていればオッケーというような、そんな単純なものではありません。

議論の上ではもっとずっと複雑で、そして実践の上ではもっとずっと大らかなのです。

★ホウドウキョクの飯山陽のページにも転載されています。