2018年1月31日水曜日

シリアにまで伸びる一帯一路:中国の中東政策のすごさ



同使節は、シリアではイスラム国の大半は滅ぼされたというもののまだ残党がおり、ヌスラや東トルキスタン独立運動といった別のテロ組織も残存しているため、テロとの戦いの終焉までにはまだ時間がかかるとしつつも、戦後復興のための支援を継続していく、と述べています。

シリアのアサド政権がロシアとイランから支援を受けていることは知られていますが、実は中国も一大スポンサーです。

先日のニューズウィークの記事にもあるように、本質的にアサド政権というのは世俗的性質が強いため、共産主義を掲げる中国と親和性が高いのです。

こちらのディプロマットの記事にあるよう、中国は1988年にM−9ミサイルをシリアに売って以降、一時中断された時期があるとは言え、現在に至るまでシリアに対する最重要武器供給国のひとつとなっています。

2017年9月にシリアの外相とニューヨークで会談をした際、中国外相は「将来における二国間の重要な協力関係」について既に言及していました。

そして今、既出の対シリア使節が戦後復興事業への参加を明確に表明しているということは、シリアも確実に一帯一路政策の中に取り込まれているということを意味します。

内戦終了の兆しが見え始めたとたん、こうした発言が飛び出すだけでもじゅうぶんに「すごい」のですが、既出の使節は「反体制派とも関係を継続させている」と述べており、その無節操さと実利だけをひたすら追求する姿勢にも「すごい」と思わされます。

「すごい」のは中国の政府だけではありません。

中国・アラブ交流協会なる組織の副会長によると、彼のところには毎日のように中国企業から「シリアのつてを紹介しろ」という催促の電話があるそうです。

同副会長によると、シリアは国全体で「再建」を必要としており、中国企業はそこに「巨大なビジネスチャンス」があると見なしているとのこと。

在中国のシリア大使によると、シリアでは5000人のウイグル人戦闘員がテロ活動を行っており、中国はそれに強い懸念を抱いているとのこと。

アサド政権がシリアでウイグル人テロリストを成敗し、中国が破壊された国土の再建を担う、というウィン・ウィンの関係が既に築かれつつあります。

2018年1月30日火曜日

スカーフ着用強制に抗議する女性たち:イラン反体制デモの一側面


「スカーフを外して、スカーフ着用強制に抗議しよう!」

今イランの街角には、自主的にスカーフを外し、それを棒に結びつけて掲げる女性たちが、出現し始めています。

例えばこちらの二人。テヘランで撮られた写真です。
 バイクに乗った男性が振り返って見ています。

こちらの女性は笑顔です。

 こちらの写真(もとは映像)は、イスファハーンで撮られたものです。
パンク系の女性もいます。
こちらも、男性が振り返って見ています。

先日記事に記したように、イランでは女性がスカーフを着用せずに外出することは違法行為です。

たとえば、こちらは昨日、テヘランで抗議行動を行ったナルギス・ホセイニーという名前の女性ですが・・・
この写真が撮られた少し後に、警察に逮捕され、連行されたそうです。

この抗議行動を最初に行ったのは、ヴィダ・モヴァヘドという31歳の女性です。
 彼女は昨年12月27日に逮捕・連行されて以降、消息不明になっています。

彼女がスカーフ着用の強制に反対すべく、白いスカーフを取り外して掲げたのがテヘランのエンゲラブ通りだったため、Twitter上では「エンゲラブ通りの女の子たち 」というハッシュタグつきで、同様の抗議行動をする女性の写真や映像が投稿されています。

スカーフ強制への抗議活動は、イランで昨年末から続いている反政府デモの一環と捉えられています。

当局がtelegramやinstagramへのアクセスを遮断して以降、大規模なデモは収まりつつありますが、彼女たちのように個人あるいは小規模のグループで行う抗議活動は継続しています。

イスラム教徒女性とスカーフというのは、非常に興味深いモチーフです。

今、イランの街中で勇気を出してスカーフを外した女性たちにとって、スカーフ着用は不自由の証です。

他方、例えばフランスのように、公共の場でスカーフを着用することが禁じられた国に住むイスラム教徒女性にとっては、スカーフ着用は自由の証です。

イランで抗議活動をする女性たちにとって、スカーフはイスラム教徒として着用義務があるため主体的に着用するものではなく、政府に命じられているため嫌々着用するものです。

他方、フランスの公共の場でもスカーフを着用したい女性たちにとって、スカーフはイスラム教徒して着用義務があるにもかかわらず、政府に禁じられるため着用することができないものです。

現代社会におけるイスラム教徒女性とスカーフは、宗教というよりは政治的色彩を強く帯びたモチーフなのです。

ホウドウキョクの飯山陽のページにも転載されています。

2018年1月29日月曜日

トランスジェンダーは「逮捕」「矯正」の対象:インドネシアのLGBTの受難

昨日(1月28日)、インドネシアのアチェでトランスジェンダーの女性12人が逮捕されました。

インドネシア紙の報道によると、 昨日早朝、北アチェのイスラム法警察がトランスジェンダーの「サロン」5箇所に次々と立ち入り、合計12人のトランスジェンダーを逮捕した、とのことです。

 インドネシアではトランスジェンダーのことをワリアwariaと呼ぶそうで、これは「男女」といった意味の言葉だそうです。

北アチェ警察の署長によると、12人は警察署に連行され、頭を丸刈りにされた上で、男の服を与えられ、その上で、走り回ったり、男の声が出るまで大声で叫ばせる、といった訓練を受けている、とのこと。

同署長は、こうした作戦はインドネシアの次世代に甚大な悪影響をおよぼすLGBTの増加を防ぐために必要であり、イスラム教法学者のお墨付きも得ている、としています。

インドネシアは多民族多宗教の世俗国家を標榜しているため、LGBTを規制する法はないのですが、例外がこのアチェです。

というのもアチェはインドネシアで唯一、イスラム法の施行が認められている地域だからです。

イスラム教では、神は人間を男と女として創り、男と女が結婚して子をなすという秩序を創ったと信じられているため、イスラム法はトランスジェンダーや同性愛行為を禁じます。

イスラム法において重要なのは、その人の外見が男なのか女なのかということであり、その人の内面の性別がどうなのかというのは、考慮の対象外です。

ですから、外見が男性であって心が女性の人がいたとしても、その人が男性として社会生活を送っていればそれ自体はなんの問題もないわけです。

ところが、外見と内面の性別を一致させたい!と、男性なのに女性の服装をしたり、髪を伸ばしてお化粧したり、性転換手術をうけたり・・・といったことは、神の創った地上の秩序に対する冒涜となるため、認められません。

そのためアチェにおいては、「男女」は逮捕されて警察に連行され、丸刈りにされて男の服を着せられ、走らされ、男らしい声が出るまで叫ばされる、という憂き目にあうのです。

インドネシアでは現在、アチェだけではなく国全体でLGBT規制を法制化する動きがあります。

LGBTの受難は続きます。

ホウドウキョクの飯山陽のページにも転載されています。 

2018年1月26日金曜日

「私たちが失ったものと得たもの」:イラン・イスラム革命の前と後


イランでは、2017年12月末から各地で反政府デモが発生しています。

当局が、デモを呼びかけるツールとして使用されていたtelegramやinstagramなどへのアクセスを遮断した後、事態は収束に向かいつつあるものの、これまでにデモ参加者20人以上が死亡、拘束された人は8000人以上にものぼるとされています。

そんななか、イラン人たちがTwitter上で「私たちが失ったものと得たもの」( )というハッシュタグをつけた投稿を始めました。

イランは1979年のイラン・イスラム革命により、シーア派イスラム教の法学者が統治を司る「イスラム共和制」なる制度を掲げる国家となりましたが、それ以前は世俗的な王政が敷かれていました。

「私たちが失ったものと得たもの」というハッシュタグをつけた投稿により、イラン人たちはイスラム革命によって失ったものと、そのかわりに得たものとを比較しています。

たとえばこちら。
女性の髪型や服装が一変したことを示す画像です。

革命前は思い思いの髪型をし、カラフルな洋服で着飾っていた女性たちも、革命後はチャドル一色です。

こちらも女性たち。
革命前はナースとしてミニスカを身につけて働くのも普通でしたが、革命後は一変。

家族写真も随分変わりました。

海辺の光景も変わりました。

パリ・マッチに掲載されたようなきらびやかな王室の姿は、もうありません。

お金の価値もものすごく変わってしまいました。。。

大気汚染もひどくなりました。。。

パスポートも変わりました。

イラン国民は、現在のイスラム共和制に批判的な人ばかりではないはずです。

体制に不満があっても、表立ってそれを表明しないほうが得策だと考えている人のほうが多いからこそ、反体制デモが(少なくとも今は)この程度の規模にとどまっているのだとも言えます。

これらの投稿者たちも、あからさまに体制を批判しているわけではありません。

彼らは、「あの頃はよかったなー」と懐かしむ気持ちをちょっぴり表に出しただけです。

しかし人々の「気持ち」というものは、時に非常に大きな社会的うねりを生じさせます。

イランに王政時代を「あの頃はよかったなー」と懐かしむ人々がいる一方で、エジプトにはムバラク時代を懐かしむ人々がいて、イラクにはフセイン時代を懐かしむ人々がいて、リビアにはカダフィー時代を懐かしむ人々がいます。

独裁政権が倒されたからといって安定するわけでも、平和や発展がもたらされるわけでもないというのが、中東の常です。

ホウドウキョクの飯山陽のページにも転載されています。 

2018年1月23日火曜日

タイの市場で爆弾攻撃:タイのイスラム武装勢力とジハード


昨日、タイ南部のヤラー県でバイクに仕掛けられた爆弾が爆発し、3人が死亡、22人が負傷しました。

犯行声明等は出されていないものの、警察筋によると容疑者はイスラム教徒の少年のようです。

バイクが置かれた場所が豚肉屋の目の前であり、亡くなったのも豚肉屋の女主人と客の男性だったことから、仏教徒を標的にした可能性もあります。

タイは仏教国として知られていますが、ヤラー県、パッタニー県、ナラティワート県、ソンクラー県といった南部には、マレー語を話すイスラム教徒が多く居住しています。

同地域は13世紀からパッタニー王朝というイスラム系の王朝によって支配されていましたが、18世紀末にタイのチャクリー王朝によって征服され、20世紀初頭にはタイ政府の直轄地として併合されました。

同地域では現在に至るまで、タイ政府に不満を抱くマレー系イスラム教徒による暴動や武力闘争が散発しており、2004年から現在までだけでも7000人近い死者を出しています。

昨日の爆弾攻撃もおそらく、その一環として位置づけることができます。

日本の外務省も、既出の4県については渡航を自粛、あるいは止めるよう呼びかけています。


ある研究者によると、タイ南部のマレー系イスラム教徒による武力闘争は、1960年代から90年代初頭にかけての時期と2001年以降の時期では性質が異なるとされます。

彼によると、以前は様々なイスラム系武装グループが各々の目的やイデオロギーを掲げて反政府闘争を行っていたため、相互の連携はほとんどなかったものの、2001年以降はおおむねイスラム教というイデオロギーを掲げるという点で一致しており、ゆえに相互で連携して攻撃を行っている、とのこと。

一方で、国際危機グループが2017年11月に発表したリポートは、タイ南部のイスラム系武装組織はあくまでパッタニー共和国の樹立をめざすものであり、いわゆる「ジハード」ではなく、それゆえにアルカイダやイスラム国といったグローバル・テロ組織に忠誠を誓った組織がひとつもないのだ、と結論づけています。

実際、タイ南部で最大の反政府組織はパッタニ・マレー民族革命戦線(BRN)を名乗っています。

BRNは1984年に3組織に分裂、一部は2013年からタイ政府と和平交渉を初めており、その成果もあって2017年は武装攻撃による死者数がここ13年間で最少となりました。

ヤラーでも、昨日の爆弾攻撃は数ヶ月ぶりのものだったとされています。

ところで私が気になるのは、当該爆弾攻撃についてどこのメディアも「テロ」とは描写していない点です。

私はタイの治安情勢については完全に素人なので、ここからは学術的根拠に乏しい個人的推察ですが、タイ南部で発生するイスラム教徒がらみの治安事件は基本的にすべて(当局によって)「分離・独立運動」の一環と捉えられ、決して「イスラム的イデオロギー」に基づくものではないと判断されるため、当該事件も「爆弾攻撃」であって「爆弾テロ」ではない、と描写されるのかもしれません。

ただ、一般のイスラム教徒である市民らが集う人気の屋台街に爆弾を積んだバイクを置き去りにし、立ち去って爆発させるという昨日の手口は、中東の街中で頻発する爆弾テロと何らかわりはありません。

既出のBRNの一派であるBRN−C(コーディネート派)は、タイ南部に多くのモスクやマドラサ(イスラム法を教える学校)をつなぐネットワークを所有し、そこで過激な、あるいは原理主義的なイスラム教のイデオロギーを広めたり、戦闘員をリクルートしたりしているとされています。

2500人以上の「中東帰り」のイスラム教徒が、タイ南部で活動しているとも言われています。

タイでは2016年8月11日から12日にかけて、各地で8件の爆発事件が立て続けに発生し、4人が死亡、数十人が負傷するという惨事が発生しました。

この時狙われたのは、日本人にも人気の観光地プーケット島と、リゾート島への経由地として知られるスラタニ、欧米人にも人気の観光地ホアヒンなどです。

これらの爆発については、相互に関連しているのかも、また誰が犯人なのかもはっきりしていない(明らかにされていない?)のですが、当局は分離・独立派のイスラム教徒らが背後にいるとみているようです。

モスクやマドラサでイスラム教のイデオロギーを広め、仲間を集い、目的達成のためにはイスラム教徒を殺害することも全く厭わず、人の多く集まる市場などでも攻撃を行い、時には外国人も標的とする。。。

こうしてみると、やっていることは完全にジハードです。

奇しくも2017年11月、タイのプラウィット副首相は「タイに不法滞在している外国人の中には、たぶんイスラム国のテロリストがいる」と発言しています。

今月16日には、パスポートを偽造しイスラム国に接触していたと見られるパキスタン人がバンコク市内で逮捕されています。

もちろん、昨日のヤラーの爆発がイスラム教徒によるテロだという証拠もなければ、南部のイスラム系武装組織がジハード思想を持っているという証拠も、昨年の連続爆弾事件がイスラム教徒の手によるものだという証拠もありません。

しかし様々な事象を表面的に俯瞰すると、なにかいやーな感じがするのは確かです。

2018年1月19日金曜日

ビットコイン禁止令:仮想通貨はなぜ禁じられるのか


昨今のビットコイン急落の背景には、世界各国におけるビットコイン取引規制強化への懸念があるようです。

中国や韓国で規制の動きが見られる一方、イスラム世界では各地の宗教指導者たちがビットコイン禁止令を発令しています。

2017年11月には、トルコの宗務庁が「ビットコイン取引はイスラム教と矛盾するので、イスラム教徒がそれを行うのは不適切である」とするガイドラインを出しました。

同年12月には、サウジアラビアのイスラム法学者アーシム・ハキーム師が自身の番組で「ビットコインはイスラム教では禁じられる」と 述べました。


さらに同月、今度はエジプトで最高の権威を認められているイスラム法学者シャウキー・アッラーム師が「ビットコインはイスラム教では禁じられる」という宗教令を発行しました。



これらの宗教令は、イスラム教がビットコインのような仮想通貨を禁じる理由をいくつかあげています。

そのひとつが射幸性です。

イスラム教はコーランにもとづき、賭博を禁止しています。

「賭博=射幸性のあるもの」と解釈されているため、投機性の高いビットコイン取引もその禁令に抵触するというわけです。

別の理由としては、ビットコイン取引が「顔の見えない」取引である点があげられます。

イスラム教はコーランにもとづき、不等価交換を禁止しています。

利子が禁じられるのも、この不等価交換禁止にもとづいています。

また等価交換の場合にも、取引の当事者が同時に手渡しで交換しなければならないとされています。

ビットコインは価値が定まらない上に仮想通貨ですから、手渡しでの交換などもとから想定されていません。

また、ビットコイン取引が自分や他人に害を及ぼす危険性が高いことも理由としてあげられています。

イスラム教は「自分にも他人にも害を与えてはならない」という預言者ムハンマドの言葉(ハディース)を法諺として重視しています。

ビットコイン取引は失敗すれば個人を破産に追い込む可能性があります。

よってこの法諺に抵触する、というわけです。

トルコやサウジ、エジプトでは、国家が正式な形でビットコイン取引を禁じたわけではありません。

しかしこれらの国の多数派を構成するイスラム教徒たちは基本的に、国の決定などよりも日々をイスラム教の教えに従って生きることのほうを重視します。

ですから、イスラム教で禁止と言われれば当然ビットコイン取引にはブレーキがかかることになります。

ビットコイン急落には、こうしたイスラム教の論理が少なからぬ作用を及ぼしている可能性があります。

★フジテレビ「みんなのニュース」で取り上げられ、インタビュー出演しました。
ホウドウキョクの飯山陽のページにも転載されています。 

2018年1月18日木曜日

「金正恩のようなカリフが必要」:エルサレムの宗教指導者が爆弾発言


米トランプ大統領の「首都認定」発言で注目を集めているエルサレムですが、先日、エルサレムのイスラム教指導者ムハンマド・アーイド師が、「我々は(金正恩のように)核ミサイルのボタンを手元におくカリフを必要としている」と述べました。


 アクサー・モスクで行われた説教において同師は、北朝鮮の金正恩が「私の執務室の机の上には核ボタンがあり私の手はその上におかれている」と言うことによってアメリカを脅迫し、トランプに「オレの核ボタンはおまえのより大きい」と言わしめただけではなく、交渉に応じる準備があるとまで言わせたと指摘。

人口たった2500万人にして共産主義を掲げる不信仰の小国ですら、世界の超大国アメリカを震え上がらせることができているのに、イスラム諸国はアメリカの補助金でジャブジャブになった結果アメリカの言いなりになっているだけで、エルサレム問題一つ解決できないと批判しました。

そして数の上では圧倒的にアメリカの人口を凌駕するイスラム教徒たちがこんなに脆弱なのは、エジプトのシシ大統領やサウジのサルマン国王のような統治者たちがイスラム教を裏切っているからだとし、我々は金正恩のように核ボタンを手元におくカリフを奉ずるカリフ制を樹立しない限りアメリカに報復することはできない、と述べました。

その上で核兵器を保有しているパキスタンを名指しし、「あなた方の核ボタンはどこにあるのだ?それさえあれば、エルサレムを解放することもできるし、世界中のイスラム教徒たちのために復讐できるではないか?」と挑発しました。

以前から同師の発言は非常に興味深いものが多いのですが、今回のものはその中でも抜きん出ています。

言っていることは滅茶苦茶なようでいて、ある意味正論です。


ホウドウキョクの飯山陽のページにも転載されています。 

墓石破壊で存在を誇示:シリアのイスラム国の今


イスラム国が昨日、シリアのイドリブで墓地を破壊する写真を公開しました。

墓石を倒します。



墓石をたたき壊します。


「あれ?イスラム国ってもう崩壊したんじゃなかったっけ?」と思われる方もいるかもしれません。

確かにイスラム国は2017年10月、シリア最大の拠点ラッカを失いはしました。

しかし彼らはシリアだけではなく、世界中にまだ存在しつづけています。

そもそも欧米メディアとそれに便乗する日本メディアはこぞって、ラッカのことを「ISが首都と位置付ける」とか「ISが首都と称する」などと書き立ててきましたが、イスラム国はラッカを首都と位置付けたこともなければ、首都と称したこともありません。

ですから、「イスラム国の首都ラッカが陥落した。だからイスラム国は崩壊した」というロジックは、(ロジックとは言えないほどお粗末なのが実態ですが。。。)そもそも成立しえないのです。


先日(1月14日)ドイツの国防相が「イスラム国との戦いはまだ終わっていない」と述べたことに見られるよう、世界中の治安・諜報当局者がイスラム国の脅威は未だに失われていないという認識を共有しています。


イドリブは現在、シリア最大の激戦地です。

アルカイダ勢力の最後の砦であるイドリブを奪還すべく攻勢をかけているのはシリア政府軍ですが、一方でその政府軍を攻撃して僅かながらも戦果をあげているのがイスラム国です。


イスラム国支持者の公開したインフォグラフィックによると、1月10日から14日までの4日間に、イスラム国はイドリブとハマーの郊外で30人の兵士を殺害し、17人を捕虜にしたとされています。



彼らが墓地を破壊する写真を公開したということは、一時的であれ、彼らがその墓地の存在する一帯を手に入れたということを意味します。

イスラム国は、墓石など、そこが墓であることを示すものを設置することは神の法に反すると理解しているため、支配地域に墓地があるとほぼ確実にそれを破壊します。

それにより、イスラム法の定める「勧善懲悪」を明示するのが目的です。


現在シリア政府軍にとって、最大の敵はイスラム国ではなくアルカイダです。

・・・アルカイダというか、本人たちは「シリア解放委員会」なる武装組織連合を名乗っているのですが、実態はシリアのアルカイダとそれに仲間入りした地元武装組織、そこに加勢するウイグル人武装組織(トルキスタン・イスラム党)など別のアルカイダ系外国人組織などの集合体です。

現在だけではなく、イスラム国がラッカからデリゾールにいたる広大な地域を支配していた頃も、イスラム国はシリア政府軍にとっての最大の敵ではありませんでした。


しかし一方で、イスラム国は今でも既述のイドリブだけではなく、ハマー郊外の一部、首都ダマスカスにあるヤルムーク・キャンプの一部、ダマスカス南西に広がる一帯の一部などを支配し、小規模ながらも活動を継続させています。



「イスラム国は崩壊した」という判断は、シリアの現状を見ただけでも時期尚早と言えるでしょう。

ホウドウキョクの飯山陽のページにも転載されています。 

「LGBTは精神疾患」論争

インドネシア空軍は先日、Twitterの公式アカウントにおいて「LGBTはインドネシア空軍に入隊できるのか?」という質問に対し、「LGBTは精神疾患だから入隊できない」と回答しました。

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「おお、それはできません。選定の際にはメンタル・ヘルスのテストがあり、LGBTは精神疾患です。精神的に正常な多くの兵士候補者がいるというのに、なぜ私たちは精神病者を受け入れなければならないというのでしょう?」

これに対し、一部の人が「LGBTは精神疾患ではない」というアメリカ精神医学会の見解を示して反論したものの、インドネシア空軍側は「LGBTは精神疾患」とするインドネシアの精神医学者の見解をシェアして食い下がります。


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「こんなのたった一人の意見じゃないか!」などと再度反論されたインドネシア空軍が、止めとして持ち出してきたのが聖典コーランです。


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「神に仕える軍兵士としても、またイスラム教徒としても、コーランは十分に科学的な証拠です。聖書以上に信頼のおける科学など存在するでしょうか?聖書では、LGBTは単に禁じられているだけでなく、呪われているのです。」

LGBTは精神病だと信じているイスラム教徒は少なくありません。

そうした人々は、このインドネシア空軍公式アカウントで展開された論争(?)にみられるよう、公式の場でそれを表明することもまったく厭いません。

イスラム教徒にとってコーランは神の言葉そのものにして絶対的存在です。それはいかなる科学的根拠をも凌駕する存在です。

アメリカ精神医学会がどんなに優秀な学者たちの集う権威であろうとも、神の前では無力であり無意味なのです。

インドのエビ禁止令:ハラール認証再考


先日インドで、「イスラム教徒はエビを食べてはならない」という法令(ファトワー)が出されました。

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これを発行したのは、ハイデラバードにあるニザーミーヤ学院の大ムフティーであるムハンマド・アッザームッディーン師です。

同学院は142年の歴史を誇る伝統的イスラム法学校。

大ムフティーというのは、そこでもっとも権威のある見解を示すことのできる法学者のことです。

同法令によると、エビは虫と同じ節足動物であって魚ではないため、イスラム教徒は食べてはならない、とのこと。

「食べてはならない」とは言っても、これはイスラム法学上「強く忌避される」というカテゴリーであって、正確に言うならば禁止ではなく、またこれを食べたからといって刑罰を受けるようなこともありません。

このニュースは、インドの他に、エビ大好きなタイなどの東南アジア諸国でも伝えられ、「エビは虫だったのか?!」とちょっとした衝撃を社会に与えていますが、実はエビをめぐる議論も同師の見解も決して新奇なものではありません。


エビなどの魚介類を食べてもいいか(=ハラールか)についてのイスラム法の議論は、非常にややこしいのですが、その原則は「魚は食べてもいい(=ハラール)」というものです。

とすると、次に問題となるのは「エビは魚なのか?」という件です。

同師は「エビは魚ではなく虫のような節足動物である」とみなしたため、「エビは食べてはならない(=ハラーム)」と結論づけたのです。


一方で、歴史的には大多数のイスラム法学者たちが「エビは魚なので食べてもいい(=ハラール)」と論じてきました。


話がややこしくなってきましたが、要するにイスラム教徒はエビを食べてもいいのかダメなのかというと、結論は「どちらでもいい」ということになります。

なぜならイスラム教徒は、エビを食べてもいい、という法学者の見解に従っても、食べてはいけないという法学者の見解に従っても、どちらでもいいとされているからです。

それじゃなんのための議論なんだ?!ということになりかねませんが、実はこうした問題は議論すること自体に意義があるのであり、ハラールなのかどうかを一義的に決定し、その決定を全イスラム教徒に押し付けることなど毛頭意図されていないのです。


イスラム教徒が何なら食べていいのか、何を食べてはいけないかの正解を本当に知っているのは、神だけだと信じられています。

ですからイスラム教徒は、神にはっきりと口にすることを禁じられている(=ハラームだとされている)豚、酒、血、死肉といったもの以外に関しては、自分でよく考え、あるいは自分の信じる学者の見解に従って食べるかどうかを判断すればいいのです。

学者は古典的な問題であれ新奇な問題であれ、必要に応じてイスラム法に立ち返り法令を出せばいいのであって、イスラム教徒からすればオプションが増えるようなものです。

日本でも、東南アジアからの外国人観光客数増加や2020年に東京オリンピックが開催されることなどを受けて、レストランや食品は「ハラール(許可)」認証を受けるべきだという論調が高まっているように見受けられます。

しかしイスラム教の基本ルールはあくまでも「神がハラーム(禁止)だとしたものだけは食べてはいけない」というものであって、「誰か、あるいは何らかの組織がハラール(許可)だと認証したものだけを食べていい」というものではありません。

このふたつは、似ているようで全く異なります。


確かに、公的なハラール認証制度が導入されているマレーシアやインドネシアのイスラム教徒に関しては、ハラール認証を「気にする」人の率が高いと言えるでしょう。しかし世界中すべてのイスラム教徒がそれを「気にする」あるいは「信じる」わけではありません。



イスラム法におけるハラールとハラームの問題は、「ハラール」というマークがついていればオッケーというような、そんな単純なものではありません。

議論の上ではもっとずっと複雑で、そして実践の上ではもっとずっと大らかなのです。

ホウドウキョクの飯山陽のページにも転載されています。