2019年1月29日火曜日

「イスラム教の宗教改革」について考える

エジプト当局がイスラム教の宗教改革に向け新たな一歩を踏み出しました。

国内外のイスラム教指導者のトレーニング施設、その名も国際ワクフ・アカデミー(IAA)の新設です。

エジプトのシシ大統領はかねてより、イスラム教を近代に調和させるために、イスラム教の諸概念を再定義し、それによってイスラム教についての言説を刷新しなければならないと主張してきました。


また早期・具体的にそれに着手するよう、エジプトの二大宗教権威であるアズハルと宗教省に再三要請してきました。


 IAAはエジプト宗教省主導のプロジェクトです。

オープニング式典でエジプトの宗教大臣は、「IAAはイスラム教についての言説刷新への呼びかけへの第一歩」であり、それは「イスラム教の知的閉塞と過激派に立ち向かう」ためであると述べました

これは、IAAを拠点にイスラム教の宗教改革を行っていくという宣言だとも解釈できます。

式典に参列したドイツのミュンスター大学イスラム神学センター長もこれを、「イスラム的啓蒙を促進する上で非常に重要な第一歩」だと評価

同アカデミーは、穏健なイスラム教のイデオロギーを広め、イスラム教についての言説の刷新に貢献し、多くのヨーロッパのイスラム教指導者をトレーニングすることになるだろうと期待を表明しました。

エジプト宗教省報道官によるとIAAは、

1)シシ大統領の「イスラム教についての言説を刷新せよ」という要請に応えるためのプロジェクトの一環
2)イスラム教についての誤解の払拭を目指す
3)国内外の男女のイスラム教指導者に対し6ヶ月間のトレーニングを施す
4)カリキュラムは啓蒙された科学的なもので、宗教(イスラム教)だけでなく経済、政治、心理学などの講義も含まれる

といった特徴を有し、ここで訓練を受けたイスラム教指導者は

1) イスラム教についての穏健かつ新しい展望
2)イスラム教のイメージをよくするための方法論
3) 過激派やテロを促すイデオロギーを否定するための方法論

などを身につけることが期待されているとのこと。

多くの人が誤解しているのですが、拙著『イスラム教の論理』にも記したように、現代のイスラム教指導者は、

「イスラム教の価値観は近代の価値観と矛盾する」

ことを認識しています。

イスラム教は神が創った神中心の規範ですから、人間が創った人間中心の規範を旨とする近代と矛盾するのは当然であり、イスラム教が比較するまでもなく近代より優れた規範であるのも当然です。

イスラム教は近代的だから素晴らしいのではなく、近代などというものをはるかに超越しているからこそ素晴らしいのです。(ゆえに、イスラム教は近代と矛盾するという私の指摘に対して「ヘイト」だと罵ることは見当違いも甚だしいのです。)

問題は、その先です。

エジプトの場合、政治権力者であるシシ大統領は、「だからイスラム教を近代に合うように改革しなければならない」と主張しています。

一方、イスラム教の研究・教育の殿堂であるアズハルは、シシ大統領の言い分は理解できるので妥協できるところは妥協するが、だからといってイスラム教の伝統全てを一掃するわけにはいかない、という立場です。

イスラム国は悪だが反イスラムだとは言えない、といったアズハル総長の発言は、伝統的なイスラム教の論理に則れば実にイスラム的に正しい発言ではあるのですが、シシ大統領はこれを煮え切らない態度とみなしイライラしてきた節があります。

実は今回の宗教省によるIAA新設の直前に、アズハルも自前のイスラム教指導者訓練所を新設しています。

ただしアズハルの方はイスラム教についての訓練のみで、政治・経済といった他分野の訓練は行われません。

IAAの講師陣にはアズハル教授らも含まれ、表面的には両者が対立しているわけではありません。

ただこれまでの経緯からは、エジプトが宗教省主導ですすめようとしている宗教改革がイスラム教の伝統をバッサリ切り捨て近代との調和を主目的にしている以上、アズハルと協調路線を取るのは難しいように思います。

IAAの試みについはサウジ当局も支援・協力を表明してはいますが、やはり世界中の全イスラム教徒の多くが賛同するとも考えにくいのが実情です。

なぜならイスラム教というのは神の啓示を字義通り虚心坦懐に受け止め、神の啓示に示された神の規範に従って生きることが神の奴隷である人間の務めであるという信念を根幹とする宗教だからです。

神の啓示・規範を、人間の生み出した「近代」という価値に適合するように解釈し直すことは、イスラム法の方法論を駆使すれば可能ではあります。

というか、この世に存在するほぼ全てのもの・ことについて、イスラム的に合法だと判断したければ判断できるし、違法だと判断したければ判断することができるという、イスラム法にはそうした側面があります。

この方法論を生み出してきたのは歴代のイスラム法学者たち自身ですが、彼らはそうした「禁じ手」を使うことに対して極めて謙抑的でした。

やろうと思えばできることを彼らがしてこなかったのは、そこに神への畏怖、自戒の念があったからに他なりません。(なお、これは私の博士論文のテーマでした。)

アズハルがシシ主導の宗教改革に及び腰である理由もまた同じです。

またいくらイスラム法の方法論上イスラム教を近代に調和させることが可能でも、それ以外の、啓示の文言に忠実で近代に調和しないイスラム教解釈を不正として禁じることは、イスラム法の枠組み内では不可能です。

それは国家権力を動員しなければできないことであり、この国家権力自体が啓示に忠実なイスラム教解釈上不正と見なされることは指摘しておく必要があるでしょう。

要するに、宗教改革によって過激派を抑え込むというのは斬新で抜本的な方策であるように見えて、実は国家権力の動員によって過激派を抑え込む従来のやり方と本質的に同じなのです。

果たしてこの試みが、イスラム教のイメージをよくしイスラム過激派を抑え込むという目的の達成にどの程度貢献することになるのか。

100年後くらいにようやく見えてくるものがあるような気がします。

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